祈りの不思議さ

多分10年くらい、毎日瞑想することを日課にしてきた。

夜と朝に1時間とか、多い時には90分とか、座っていた時期もある。

 

でも最近は祈ることが多くなった。

最初は前半は瞑想して、後半に祈ったりしていたが

だんだん祈りのパーセンテージが高くなってきた。

 

瞑想には対象がない、あったとしても呼吸や、音、自分の心の動きなどを

集中や気づきのアンカーとして用いる。

一方祈りには「神様」という方向性がはっきりとある。

そしてそれはレスポンスしてくれる存在なのだ。

 

毎週日曜日に教会の礼拝に参加するようになったとき、

ちょっと驚いたのは、何かとみんな祈ることだった。

嬉しい時も、しんどい時も、食事を前にしても祈る。

 

今日は仕事できついことがあって…と話すと

じゃあ祈りましょうか、という流れになる。

 

インドを旅してた頃、ある仏教の高僧に自分の悩みを訴えた

すると彼は「それはカルマだから仕方のないことだ、苦しみは誰の人生にも起こる、

だから心を乱さず瞑想しなさい」というようなことを言われた。

 

私は、何か困ったことがあるといつも瞑想していた。

人間関係での悩みがあるときは慈悲の瞑想をしていた。

実際にそれはかなり役に立ったと思う。

 

でも、本当にしんどい時、心が折れた時、瞑想と祈りとどちらが心に効くかといえば

自分にとって祈りの方だった。

辛い時はシンプルに、寄り添ってくれる存在を必要としていたのだ。

 

もちろん、瞑想が目指すところは、単なる慰めや悩み解消ではなく

悩みを感じる心そのものの変容にあるのだから、目的が違う。

どちらが優れているとか、決して言えるものではない。

実際、心がザワザワして落ち着かない時は、私はこれまで通り瞑想している。

 

祈りには、別に規則はない

ただマントラのように同じ言葉を繰り返すのではなく

もっと有機的に神様と対話するだけだ。

綺麗事だけでなく、泣き言も言う。

私が通っている教会の牧師さんには友達みたいに語りかけていいんですよ、と言われた。

祈りは自分のためだけではなく、人のためにも祈る、

親しい人、そうでない人、世界の平和のためにも。

 

自分の心の内を吐露することで、セラピー的な効果もあるのかもしれない。

祈っているうちに、心が整理されて、落ち着きを取り戻せる。

祈りの伝統が、西洋のカウンセリングや精神分析という療法につながっていくのだろう。

 

ただ不思議なことに、祈りは時々聞かれるのだ。

もちろん毎回ではないが、本当に「えっ?!」と驚く時がある。

偶然とは思えないことが起こる。

今日もたまたま、そんなことがあって、

本当に祈りとは不思議なものだなあと、しみじみ噛み締めていた。

 

確かに何かが、自分を超えた何かが、今ここに、私と共に在るのだと。